ちょっと旅してくる

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劇団四季「オペラ座の怪人」静岡公演

2月にロンドンで見たんだけど、また見たくなって行ってきた。四季の会会員の友達が三列目センターという神席チケットを取ってくれて、くるりと回った踊り子のパンツまで堪能してきた次第。

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場所は静岡市民文化会館。ちょっと大きな都市だとこういうホールあるよね、っていうサイズの昔ながらのホール。平日なので全部の席で当日券あり。

 

初めて劇団四季版を見たのは確か大学生だった。私の「基礎」は高校生の頃から聴いているサラ・ブライトマンがクリスティーヌを演じたロンドンオリジナルキャストCDなので、セリフの中に日本語と英語が入り混じる劇団四季版は耳が混乱したのを覚えている。

あれから10年以上経ったはずだが、相変わらず「ファントム」と「怪人」、「エンジェル」と「天使」など日本語と英語が入り混じっているし、その入り混じり方も脈絡がない。

そして私も相変わらずロンドンオリジナルキャストCDを聞き続けているので、劇団四季版は“そう”なんだと知っているはずなのに英語の後には英語が続くものと脳が勝手に準備してしまい、結果的に日本語の歌詞がなんだったのか良くわからないという現象がまた起きた。

我ながら進歩がないが、できれば劇団四季も日本語なら日本語で統一してもらいたい。

 

それと音響は生オケではなく録音。これは東京の四季劇場でもそうなのか、地方公演だからなのかは知らない。オケピのあるホールなど限られているので仕方ないよなーと思いつつ、劇中でシンバルやトライアングル叩くシーンもエアだったのはどうなのかな。ドンファンの練習中のピアノは多分生音出ていたぽかったし、オケないなら生音出せるものは出来る限り出してくれたほうが臨場感があっていいなと思った。

 

今回素晴らしかったのはラウルだ。というか、ラウル以外の登場人物がなんだかマイルドだったのだ。

耳障りな高音とイタリア訛りと凶悪なまでのプライドの高さがトレードマークのカルロッタは、我は強いが歌の上手い「まぁこういう人いるよね」レベルだったし、弾け煌めく歌声と若さゆえの無自覚な媚でファントムとラウルの間を往き来するはずのクリスティーヌは、唄声に貫禄がありすぎて新人というよりカルロッタやマダム・ジリーに近い。

ファントムの怒りと執着は耐え難い絶望や悲哀の裏返しだと理解していたのだが(2月に観たロンドンのは鳥肌が立つほどココの表現が素晴らしかった)、思うようにならないから単に怒っているような表現に感じることが多々あり、シニョール・ピアンジのドンくささや実力のなさはそれほど強調されておらず、ちょっと抜けてるポッチャリおじさんだった。

 

ファントムのおかげで歌姫になった状態でクリスティーヌを「発見」したくせに幼馴染だなんだと言いより、勝手に二人の世界を作ってファントムを敵視した挙句まんまと人質に取られたりするばかなやつ、というのが私のラウル像だ。

アンタむしろクリスティーヌをここまで引き上げてくれたファントムに感謝しなさい、そして主役じゃないから上手・下手とかどうでもいいぐらいに思っていたのだが、しかし!

今回のラウル、端正な顔立ちに素晴らしいテノールの歌声、品よく誠実な貴族の若者そのもの。普段よりマイルドな登場人物たちの中において、ファントムとクリスティーヌとの三角関係となるに十分値する魅力的な登場人物となっていた。

 

となるとどうなるか。いつもならば浅はかなクリスティーヌや単細胞なラウルに対しフンッ!という気持ちを抱きつつ、ああファントムなんて気高く悲しいの…と思いっきりファントムを称賛するのだけれど、いやこれ今回ファントム仕方ないよ、ラウルのまっとうさに対してファントムちょっと強引にやりすぎちゃったね、これはクリスティーヌ返すしかなかったよ、とこの結末を受け入れざるを得ないという気持ちになった。

…なんて不思議なんだ!

 

というわけで主にラウルについて新しい発見を得て帰ってきたのだった。うーん面白い。そしてロンドンでまた観たくなってきた。やばい。マイル貯まってるだろうか。